【軟式野球部】英国帰りのリードオフマン・中澤遼也、たどり着いた念願の野球

ピンクのリストバンド、ダイビングキャッチが目立つリードオフマン、中澤(社4)。中澤の経歴は少し異例であり、2年間野球から離れていた時期があった。そのブランクを乗り越えて入部した立大軟式野球部では1年次からスタメンに名を連ねるなど、戦力として活躍した。

野球がしたい

中学時代は東京の強豪・世田谷西リトルシニアで過ごす。チームとして3年次に全日本選手権を制し、日本一を経験した。その後、甲子園出場経験のある東京・佼成学園高へ進学。甲子園を目指して3年間野球漬けの日々を覚悟していたが、1年の冬に家庭の事情でイギリスに移住。立教英国学院高へ転校し、高校野球を断念せざるを得なくなった。寮生活ということもあり、自分一人の時間が少なかった。そのような状況下でストレスを感じることが僅かにあった。気晴らしとして素振りをしたり、走り込みを行い、野球で心のモヤを晴らしていた。野球文化の薄い異国の地でも野球に対する気持ちが消えることはなかった。「もう一回ちゃんと野球をしよう」。そう決めた。入部するからには活躍したい。その一心で壁あてやトレーニングなど、自分に出来ることをやっていた。

左足を大きく上げるフォームが特徴的だった

数年越しのグラウンド

約2年の英国生活をもって立大に進学。正直なところ、自分のレベルが分からなかった。2年間トレーニングを行ってはいたが、最後に生きたボールを見たのは2年前。自信はなかった。準硬式や硬式などを吟味して最終的に、「ここなら自分が輝ける」と思い、軟式野球部に入部した。同期の大半が高3まで野球をやっていたという状況に身を置き、ブランクを言い訳にしたくないと感じた。帰宅後は毎日素振りを行い、全身が映る窓の前でスイングを確認した。中学時代の監督のもとに足を運んでフォームを見てもらいアドバイスを受けた。やれることは全てやった。努力が身を結び、1年秋のリーグ戦にスタメンとして出場。東日本選手権にも出場した。特に自信があったのが守備。中学時代に守備固めとして起用されていたことから、自他共に認める守備範囲の広さを誇った。英国時代に走り込みを行なっていたこともあり、昔に比べて衰えていなかった。中堅手としてチームに貢献した。ただ、思うようにならなかったのが打撃面。「体が思うように動かなくて悔しかった」。2年間のブランクを完全に埋めることができなかったと語る。打撃面以外でダイビングキャッチやヘッドスライディングなどで常にチームを鼓舞してきた。

野球をできる喜び

「野球をずっとできなかった中で、もう一度野球をやれるチャンスをもらえてよかった。楽しかった」。中澤は3年間を振り返る。個人として、チームとして思うような結果が出ない時期もあったが野球をできる喜びを噛み締めている。野球を取り上げられた男だけが知る喜びであり、格別であるだろう。そのような喜びを体現するがごとく、中澤は笑顔で白球を追い続けた。結果はどうであれ野球をプレーできるだけで幸せだった。

笑みを浮かべて肩慣らし

◆中澤遼也(なかざわ・りょうや)
社会学部メディア社会学科4年。右投右打、外野手。強豪・世田谷西リトルシニアで中学時代を過ごしたのち、佼成学園高へ進学。1年後には立教英国学院高へ転校し、しばらく野球から離れた生活を送る。帰国後に進学した立大で軟式野球部に入部。入部後は1年次からリーグ戦に出場し、中軸、上位、下位とあらゆる打順で起用された。3年次からは背番号1を着用。常に全力プレーでチームを盛り立てた。

(8月29日 渡邊大樹)

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